第11回 2004/11/01
気がすっかり冬の冷たさとなりました。ちょっと風邪気味のスマイリー井原でございます。

 本WEBサイトのトップに歌詞の一部があげられている『独り』は、ライブでも人気の高い曲です。これを紹介するとき、私は必ず「咳をしても一人、都会の孤独」と決まり文句を申し上げます。ライブでは、ここで早くも小さな笑い声が客席から聞こえてくるのですが、なぜ笑い声が漏れるのか、ちょっと不思議に思います。ウケてくださってありがたいのですが、この言葉のどこが面白いのだろう、と思うのです。

 この「咳をしても一人」というセリフは、私のオリジナルではありません。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、尾崎放哉という俳人の代表的な句です。放哉は、荻原井泉水が1911年(明治44年)に創刊した俳句機関誌『層雲』の有力同人で、同時代に『層雲』誌上で活躍した種田山頭火と並び称される、自由律俳句(「五・七・五」にとらわれず、季語などの決まり事からも自由な俳句)の巨星です。

 1885年(明治18年)に現在の鳥取市で生まれ、一高、東京帝大というエリートコースに乗り、保険会社に勤務しましたが、酒癖の悪さから、36歳の時に退職せざるをえなくなりました。酔うと、人に暴言を吐き、人格を否定するほど罵倒したりする人だったようです。それでも、助けてくれる友達がいて、その世話で朝鮮の京城(現在のソウル市)で再就職するのですが、その職も酒でダメにしてしまい、満州へ流れた頃に肺を病んで、何の当てもなく帰国します。

 奥さんとわかれて、京都の一燈園という修養団体で托鉢生活を始めましたが、病後の弱った肉体では耐えられず、そこを脱して知恩院の寺男となりました。その後、酒でのしくじりなどから、須磨や小浜の寺を転々とし、ついに行く当てがなくなって、台湾へ渡ろうと決意したところ、荻原井泉水の計らいで、『層雲』同人を頼って小豆島に落ち着き先を見いだすこととなりました。庵主となった小豆島第五十八番札所西光寺奥の院「南郷庵(みなんごあん)」が、放哉の終の住
処です。1924年(大正14年)8月20日の入庵からわずか8ヶ月、「これでもう外に動かないでも死なれる」と詠んだような捨て鉢な暮らしがたたって、肺の病が進行して衰弱し、翌年の4月7日に41歳で亡くなってしまったのです。

「咳をしても一人」は、南郷庵に入ってからの句です。秋から冬へ、寒くなっていく時期に、満足な食べ物も取らず、医者にもよくかからず、病の発作が起きて咳が止まらなくなる。激しく咳いても、奥の院には自分以外、誰もいない。放哉の晩年を知ると、この句が、いかに壮絶な境地から生み出されたものかがわかります。

 ペーソスの『独り』も、よく味わうとかなり深刻な歌詞です。大都会、多くの人々の中に生きていて、ほとんど他人と口をきかない生活。しかも、気力の弱まった中高年。「猫と目があった」で笑っていなければ、本当にやりきれない詩です。そんな島本さんの詩心が、私の中で、放哉と共鳴します。

 私がペーソスの専属司会を務めるようになったのは、今年2月、「大西ユカリと新世界」新宿・クラブハイツでのライブに前座出演させて頂いたときからです。その時、『独り』を紹介するにあたって、自然と口から出てきたのが、「咳をしても一人」でした。私は、この句をどこで知ったのか、よく覚えていません。おそらく、高校の国語教科書にでも載っていたのを読んで、頭の隅に埋もれていたのだろうと思います。それが、単純に、『独り』→「一人」の連想で掘り出されただけかもしれません。が、今、あらためて思うと、島本さんの詩が、私を媒介にして放哉の句を現代に呼び起こしたように思えてなりません。

 ペーソスが、ともすると「お笑い」みたいに思われるのは、それこそ島本さんの詩にペーソスがあるからですが、もし、その笑いのエッセンスを取り除いて剥き身にしたら、そこには尾崎放哉のような世界が展開するのではないか、と思います。魂の叫びを音楽に乗せる中高年のオザキ、それがペーソスの正体なのかもしれません。

 尾崎放哉の生涯にご興味持たれた方には、おそらく一番入手しやすい本として、吉村昭さんの『海も暮れきる』という小説をお薦めしておきます。講談社文庫のラインナップに入っています。

 私も、咳をしても一人なんです。夕食も、しばしば「チンしてもらった弁当」です。よく、猫と目が合います。

 どこかに、私の奥さんになってくださる方いらっしゃいませんかね?
咳をしても一人